魔術の原理

私は以前に本物の「魔術」とは個人の念力では無く、「憑依現象」で引き起こされると定義し考察しました。
つまり、雨を降らせる祈祷は、いわゆる潜在意識が奇跡を起こすのではなく、龍神・雨の神の憑依で奇跡が起こるものなのです。

古今東西の事例を調べてもそれは明白でありまして、神道ならば「鎮魂帰神」であり、空海の密教でも「加持祈祷」「護摩行」はすべて「憑依現象」であり、それは西洋魔術と同じく魔方陣で悪魔を召喚するのとまったく同じである。
違いと言えば、それが善神であるか邪神であるかに過ぎない。方法論は「憑依」ということである。

憑依とは何かというと、他力ということである。
自力の力は弱く、他力こそ念力の本当の力である。

それで、魔術師は魔力とは他力である故に、如何にして「悪神」では無く、「善神」の憑依を達成するかを考察しなければならない。
なぜなら、憑依というのは相手があることなので先方が同意しなくては憑依してくれないからである。

そのポイントとなるのは「波動」である。つまり、憑依は波動で起こる。

禅宗の僧である白隠が作った問題で「両手で打つと音がするが、片手で打った音はどんな音か?」とか「お寺の鐘と棒で鳴っているのはどっちか?」という禅問答がある。

言語学者の井筒俊彦は、「意味分節理論と空海-真言密教の言語哲学的可能性を探る」の中で、荘子の「天籟」の比喩を例に出し「言語と存在」について説明しています。

『荘子』の「天籟」の比喩を、私はこの点で特に興味深いものと思う。無限にひろがる宇宙空間、虚空、を貫いて、色もなく、音もない風が吹き渡る。天籟。この天の嵐がひとたび地上の深い森に吹きつけると、木々はたちまちざわめき立ち、いたるところに「声」が起る。この太古の森のなかには、幹の太さ百抱えもある大木があり、その幹や枝には形を異にする無数の穴があって、そこに風が当ると、すべての穴がそれぞれ違う音を出す。岩を噛む激流の音、浅瀬のせせらぎ、空にとどろく雷鳴、飛ぶ矢の音、泣きわめく声、怒りの声、悲しみの声、喜びの声。穴の大きさによって、発する音は様々だが、それらすべての音が、みな、それ自体ではまったく音のない天の風によって喚び起されたものである。

荘子の「天籟」の比喩こそ、まさに白隠の「両手で打つと音がするが、片手で打った音はどんな音か?」とか「お寺の鐘と棒で鳴っているのはどっちか?」という禅問答の解答である。

「音」というのは手とか鐘という物質自体が鳴ったのでは無く、物質の「動き」で発生した「ハタラキ」であること。即ち「いくら仏の慈悲が空間に充満していると言えども人々が仏と感応道交しなければ仏の慈悲は現れない」と言う意味である。
つまり、仏の慈悲は空気の如く遍く常に存在しているので、動きや振動などの「感応道交」があれば、仏の力が顕在化するということであります。感応道交とは何かというと「共鳴」である。

空海は「声字実相義」で「五大にみな響きあり、十界に言語を具す」と書いている。

五大とは物質を作る材料であり、それは、地・水・火・風・空であるが、この五つの材料は物質であるだけで無く、それぞれ独自の響きを発し、声を出しているということである。つまりまさしく「波動」である。

そして、空海によれば、宇宙は大日如来の言葉が充満しているのであって、仏の世界から地獄の十界、あらゆる存在世界に大日如来の言葉が絶え間なく響いていると言う。しかし「言葉」は人間の耳では聞こえない。
つまり、大日如来の聞こえない言葉とは「波動」で、もしも人間が大日如来の波動と同じ波動が発することができれば共鳴現象で大日如来が人間に憑依するということである。
そして、真言密教は憑依を可能にした。その「方法」とは、大日如来の「波動」とは、「真言」という言葉であり、「人間が認知できる音」となったので人間が大日如来の真言を唱えれば、音叉が共鳴するように大日如来が憑依するということである。

大日如来だけでなく、大黒天も常に波動を出していて、大黒天の波動と同じ波動を出せば大黒様が憑依するということになるが、大黒天の波動も「大黒天の真言」を唱えれば、音叉が共鳴するように大黒天が憑依するということである。
この原理と同じく、不動明王も烏枢沙摩明王も愛染明王も龍神も同じ原理で憑依するということである。
つまり、愛染明王は愛染明王の真言を延々と発し、烏枢沙摩明王は烏枢沙摩明王の真言を常に発しているので、愛染明王の加護を望むのならば愛染明王の真言を唱え、烏枢沙摩明王の加護を望むのならば烏枢沙摩明王の真言を唱え、愛染明王と烏枢沙摩明王と感応道交すれば、憑依され即願望成就する。

法華経で観音菩薩が音に感応し、迷える凡夫が心の底から「南無観世音菩薩」と助けを求めるならば、必ず助けると書いてあるが、私は「法華経」を読みながら、どうやって観音菩薩は大勢の凡夫に音を聞き分けるのか?疑問であったので単なる比喩だと考えていた。しかしながら、「波動共鳴による救済」と考えると現実に達成が納得できる。音叉は離れていても同じ波動なら何個の音叉でも同時に共鳴するからである。

そして憑依の成就に大事なのは「無我」であること、「利己」では無い「利他」であることが神との共鳴にはもっとも重要な事である。
空海はそれを「心には仏の姿をイメージ・手で仏の形を真似て・言葉で仏の言葉(真言)を唱える」ことを徹底すれば必ず仏が共鳴の原理で憑依し仏の加護があると言っている。

以上から「心を無私・無我」にし、「利他の願いの言葉を発する」こと、即ち「言葉」と「無我」を以て善神の「鎮魂帰神」となり善神が憑依するということになる。
つまり、善神と邪神憑依の差は鎮魂の動機が「無私・無我」か「利己・我欲」の差であるという事であり、無私の心で真摯に祈りを捧げること、声を出して祈ることが善神との感応道交であるということである。

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