願望は叶わないが思いは必ず通じる

住友の中興の祖と言われる伊庭貞剛という人の話。

伊庭は四十八歳の時、住友が経営する別子銅山の争議を収める為に新居浜に行った。
鉱山の労働者との話し合いは困難を極め、伊庭は「死」を覚悟した。
彼は争議のかたわら、夜は「臨済録」を読んだそうである。

ところが臨済録は難しくまったく理解出来ない。
それでも不退転の覚悟で読み進むと、ある一文が体を電光のように貫いた。
その一文とは、
「随所に主となれば立つところ皆真なり」

この時を境に争議は好転し、伊庭は見事解決に導いたのである。

私は、ずっとこの話が気になって、
「随所に主となれば立つところ皆真なり」
から得た伊庭の確信とは何なのか?
それは、宗教・哲学的な解釈では無くて、伊庭がこの一文から、
一気に問題を解決できた神通力はどうやって得たのか?
をずっと考えていました。

そこで答えが判ったので書こうと思うのです。

この臨済禅師の言葉の意味とは、
「どこへ行っても主人公になって、主体性を失うな。
そうすればその人の行く手を遮るモノは何も無い。」
ということですが、
これを、どこへ行っても自由に勝手なことをしてもよいという意味では無く、
また、必死に威張れば叶うということでもないのです。

この真の意味は、
どこへ行っても、何があっても、環境や他人に悪い感情を持たず、
怨まず、自分がどんな環境でも変える力があることを確信し、
「結果がどうあるのが善であるか」を考え、それを望み、
常に天を相手に誠実に問題に対処する時、天が味方をしてくれる。

という意味だと思われる。

「こっちの方が都合が良い」とか「こっちのほうが楽だから」とか
というような自己中な「願望」では無く、
「こうあるのが善である」とか「こうあるのが後々良くなる」から
これを成し遂げたいという高地からの姿勢は「思い」なのだ。

「思い」とはプラトンのイデアに似ている。

参照:プラトンの洞窟の比喩からのいわゆる引き寄せの法則について


つまり、これはまさしく
「願望は叶わないが思いは必ず通じる」という意味であり、
「至誠天に通ず」とか「至誠神の如し」と同じである。

至誠が奇跡を起こすことは事実で、

安岡正篤が、「宗名臣言行録」解説で、 宋の政治家であった劉安世を暗殺する為に
政敵から何度も刺客が雇われたのですが
劉安世は私利私欲を離れ至誠に徹していた政治家であった為、
暗殺者が血を吐いて死ぬというような奇跡が続き
決して暗殺されなかったと紹介しています。

至誠に徹する者は、鬼神よりも強いのです。
暗殺者をも殺す力があるのです。
山岡鉄舟も経験から至誠の力を実感し、「至誠の者は神と等しい」と言っています。
至誠とは、己の損得や感情を離れ、全体の調和と善を徹底して優先させる生き方である。


つまり、私が判った事とは、
「至誠の者は無敵」という具体的な実践方法が
「随所に主となれば立つところ皆真なり」という事です。



そして、もう一つ判ったことがあるので書いておこうと思うのですが、
もしも、同業者の中で群をぬいて成績をあげようとするには、
同業者の誰よりも必ず朝早く起きることである。

会社の責任者ならが、早起きで朝一番に出社すると必ず成績は上がるし、
従業員が早起きで朝一番に出社すれは必ず出世します。
受験ならば、他の受験生よりも誰よりも早く起きれば必ず合格します。

私は、早起き・一番出社の数々の奇跡を知るに従い、
恐らく、早起きも「至誠」と同じ力を発揮するのではないかと思っています。


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