ハーフになぜ美人が多いか?

■ ルーマニア人に美人が多い理由

「混血が進むと美人が多くなる」という説がある。
確かに、特に白人とアジア人の混血は非常に美男美女が多いように思うし、この説に異論をいうひとは少ないと思う。ルーマニアとかアルメリアとか美人が多いとされる地域は、必ずといっていいほど民族の混血が多い場所である。前に書いたBLOGで秋田や新潟のように日本海側には美人が多いという理由もおそらく遺伝子的な理由であると私は考えている。
しかし、なぜ純血よりも混血の方が美人になるのか?という理由は明確ではない。

仮に混血が進むと美人が増える理由を、竹内久美子先生的に免疫的な立場から考えることもできるだろう。
つまり、「美しさは遺伝子が優れていることである」という前提を支持すれば、混血は遺伝子の多様性を意味し、免疫の優位さを意味する。即ち、混血が美形である理由は、混血が免疫的にエクセレントである証明ということになろう。

ゆえに遺伝子の優位性を鑑みれば自然界では「混血は美しい」という定理が存在することも理かもしれない。
しかし、そんな理由は今回の暴論にはどうでもいいことなのである。
つまり大事なのは「混血に美人が多い」という現象であると私は提起する。


■ 性感帯の位置

やや官能的なお話。
性感帯の位置をご存じですか?
いわゆる性感帯とは、くすぐられるとくすぐったい場所であり、気持ちのよい場所でもあるのですけどね。
この性感帯の位置というのは、体の「境界線」にあるのです。
つまり、お腹があまりくすぐったくないのに、腋がくすぐったいのは、腋が前と後ろの「境界線」であるからです。
性感帯は、身体の縁にある。たとえば体の内部の延長の粘膜と体の外部の皮膚との境目である唇が性感帯であるように。

性感帯とは、性交において互いに密着するペニスと膣、キスにおいて触れ合う唇や舌、授乳において密着する乳首と乳児の唇、排泄における肛門と便、尿道と尿、視線を交わす瞳と瞳、声が出入りする耳と口のように、自分と他者が接触することによって初めて機能が動き出す体の器官でもある。
これらの性感帯と呼ばれる身体の「縁」は、自分の身体の領域であると同時に領域でないという両方に属する領域であると考えられる。

なぜ性感帯は境界線にあるのでしょうか?
それは、つまり「欲望は欠乏を満たすために生じる」からである。
私たちは欠如を埋める相手や対象を求めている。
だから、性感帯は、欠如を埋める相手と接触できるように、また接触によって快感を感じるように身体の縁(境界線)にあるのです。


■ 座禅と脳波

1955年、東京大学の精神科医・笠松章、平井富雄両博士によって、 禅僧が坐禅をしている時の脳波状況を調べた有名な実験がありますが、この実験で判ったことは、坐禅中の禅僧の脳波は、非常に強いα波~θ波が出ていたということである。

一般的に、α波~θ波というのは、起きている状態から、まさに眠るといった「境界線」で出る脳波である。
つまり、座禅中の禅僧の脳は、眠っている状態と覚醒している状態の「境界線」にいる。
しかし、禅僧はウトウトしてるのかというとそうではないのです。
修練を積んだ禅僧によると「坐禅中は遠くにある線香が燃え尽きて、その灰が「バサ」と大音響で崩れる音がはっきり聞こえる」ほど、感覚が鋭敏になって、普段より研ぎ澄まされた心なのです。

また岐阜の虎渓山で有名な話ですが、まだ入山して日の浅い若い僧が、老禅僧の部屋の前を通りかかった所、部屋の中から「大量の水が流れ出ていた」のを発見しました。
慌て驚いて他の僧に報告に行くと、皆が笑って、「お前も見えたか?あれは老僧が座禅で水相願を実践している最中だったので大量の水が流れているように見えたのだよ」といった逸話があります。

禅宗ではこの座禅による念力を禅定力といい決して胡散臭い現象ではありません。
意識が集中すると様々な現象が顕れるといいます。

なんとも不思議な話であるが、 ひとつ言えることは、無意識と有意識の「境界線」の精神状態に非常に摩訶不思議な力があるということは紛れもない事実であります。


■ 半眼

さて、座禅の目的とは何か?と考えるに、確実にいえることは、意識と無意識の「境界線」に遊ぶことであります。

座禅が意識と無意識の「境界線」に遊ぶことを可能にする方法とは、坐禅が、他の瞑想と違って、目を閉じた状態でするのではなく、 「半眼」という目を半分開けた状態で行われることにあるといっても過言ではあるまい。
座禅の面目は「半眼」にある。

通常、人が目を開けている時に出るのはβ波でα波は出ないのであるが、半眼にすると、不思議なことに、目を閉じた状態でないと出ないα波が見られるのである。
また、完全に目を閉じてしまうとθ波が出て人間は眠ってしまうのである。

ところで、目を開けた状態でα波が出ている状況というのは、ぼーっとして、非情にリラックスしている状態であるか、 もしくは、鬱や痴呆、無気力、無感動などの脳に異常がある状態である。

しかし、こりゃまた摩訶不思議なんですけど、先ほど述べたように、坐禅している僧は目を開けた状態でα波が出ているのにも係わらず、呆けているわけではなく非常に深く集中した状態にある。

否、リラックス状態なんかではなく、まさに覚醒している状態であるといえましょう。
つまり、半眼によって第三の目すなわち心眼が開き、肉眼の目よりも多くのモノを観ることが出来るのです。



■ 境界線は聖なる場所である。

さて、「混血」という意味を哲学的に考えてみるに、性感帯と同じく「境界線」という性質があると私は考える。
たとえば、混血は白人と黄色人種の混ざった者という意味であるならば、それは白人でも無く、黄色人種でもない「境界線」ではなかろうか?つまりニューハーフが男と女の境界線に位置するように、混血も人種のニューハーフとも言えなくもない。

また座禅の目的とする「空の境地」も、無意識と有意識の「境界線」にあり、その意識の「境界線」すなわち「空の境地」にはとてつもない力が内臓されている。

さらに、イエスキリストも神と人間の「境界線」に位置する存在であると考えられる。

もしも、天の神が地上の人類を救おうとするのならば、神と人間の境界線にいる者しかその目的すなわち救済の使命は果たせない。なぜなら神が人間に接触をするには、必ず同じ人間という境遇に神が存在せねばならず、救済者は神と人間の両方に属していなければ力を発揮できないからである。

つまり性感帯が、欠乏感を充足させてくれる相手と接触できるように身体の縁にあるように、イエスも神と人間の「混血」であり「縁」であり「性感帯」でなくては、神の救済の力はイエスを通じて発動しないのであります。

「境界線」という存在が、どちらでもあってどちらでもないという性質から中途半端な存在のように考えられるのであるが、実は「境界線」こそ「特別な場所」であるという性質を持っていると私は考える。
それは、例えば、長崎の出島や大使館のように日本でも無く外国でも無い場所である故に権力さえも介入できない聖地であるように「境界線」は「特殊な場所」なのである。

そして神はこの境界線に特別な価値を与えたのである。
あたかも旧約の神が土曜日を安息日として聖別し祝福したように、身体においては、境界線は「性感帯」であり、遺伝子にとって混血は「美しさ」が存在する場所であり、さらに意識において無意識と有意識の境界線である「無我」には無尽蔵の力をわき出させる出口が存在している。
そして絶対的な存在において、「救済者」とは必ず「境界線に存在する者」でなくてはならない。



■ 結論

「カレーのルーも一種類よりも多種類を混合させたほうがおいしいカレーが出来るよ」
と誰かが言っていたけれども、それもルーマニア人の女性が美しいのと同じ理由であろうか?

しかし、そんな話はどうでもいいのだ。
今回、私が言いたかったこと。
それは、つまり、「良きものや捜しものは境界線にある」ということなのだよ。

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