迷信は信じるに値しないか?

   プラモデルを作るのが上手い人

プラモデルを作るのが上手い人は、出来上がりの完成状態を頭にイメージして作る。
けっして説明書の順番に作らない。
この「完成状態」を心理学では「モデリング」と呼ぶ。

心理学用語で「モデリング」とは、実際に人間の成長過程では、誰かを真似るという「モデリング」により学習・成長するとされている。

この「モデリング」は、自己実現の方法論としても良く使われるようである。

たとえば、最近読んだ雑誌に「お金持ちが語るお金持ちになる秘訣」という記事があったが、まさしく「モデリング」であった。
そのリッチマンによれば、「お金持ち」になりたければ、
「自分と似ているお金持ちのモデルを探し、徹底的にそのモデルの真似をすること」が秘訣との事である。
また、違う雑誌で「誰も教えない女性にモテる秘訣」という記事があり、そのプレイボーイ氏によれば、女性のモテたければ、「自分に似た性質のモテル男を探し、髪型から行動まで徹底的に真似をすることである。」ということだ。

さて、このようなマニュアル本やハウツー本の存在に関する賛否は別にして、この「モデリング」による自己実現方法は、功利的で正しい方法であると私は思う。

仮に女性心理学を学び「女」の攻略法を駆使してもモテない奴はやはりモテないであろう。
女にモテる男は、それぞれが個性的であって、万人の共通項は少ないのである。
同じく、お金持ちも「経済学」を勉強し、「理論」から入っても決して100%の人が金持ちには成れないであろう。
なぜなら、金を儲けた男は、それぞれが個性的であって、万人の共通項は少ないからである。
正しいのは、理論ではなくて「実在するモデル」である。

プラモデルなんかも、出来上がった「型」を頭に入れてから作ったほうが、出来上がりの形を知らずに、初めからコツコツと説明書を読みながら作るよりも早く出来る。

いわば、「モデリング」は「出来上がりの姿から逆算して出発する」プラモデルの作り方と同じであろう。

そして確実に成果を上げたい人はこの「モデリング」の手法を学習すべきであると思う。
以下に「モデリング手法」の正しさを示す事例をあげて検証してみよう。


   アポロ計画

じつは、アポロ計画で米国が月にロケットを到着させた「アポロ計画」も、モデリング的なのである。

NASAがアポロ計画で月にロケットを発射するときの秒読みが「発射、1.2.3」ではなくて「3.2.1、発射!」である理由にその根拠が見られるわけで、それは、月にロケットを飛ばす場合、地球上から計算して月を狙って打つのではなく、月にロケットが着陸した状態から逆算して地球上から発射するからである。
簡単にいうと、月に着陸した時間を「100000000秒」だと仮定し、そこをスタートとして逆算し地球上で「0」で発射するのである。
宇宙工学では、これをシステム思考という。

アーチェリーは、的を狙って矢を放つ訳であるが、「ロケット」は的に当った状態から逆戻りして矢を放つという方法なのである。


   密教での即身成仏

空海の即身成仏も、非常に「モデリング的」である。
空海のいう即身成仏とは、死んでから仏になるのではなく、生きた人間のままに仏になることである。
その方法論として密教で「三蜜加持」というのがある。
「手に印を結び、口に真言を唱え、心三摩地(さんまじ)に住する(精神を統一する)ならば、仏の三蜜と行者の三蜜が相応じて加持するとすみやかにさとりの完成を得ることができる。」とある。

私のイメージする空海の即身成仏とは「渋柿を甘柿に変える方法」である。
渋柿を甘柿に変えるにはどうすればよいか?というと、それは根っこは渋柿の木の幹を切断しそこに甘柿の幹を接合すれば良いのである。
一瞬にして渋柿は甘柿に即身成仏し、決して渋柿には戻らない。
その接合を行うのが三蜜加持をはじめとする密法なのでなかろうか?

即ち、わたしたちは、前提として、既に成仏しており、人も仏と同じ条件を満たしているのであり、しかも仏と常に感応しあっている。だから、理論的に仏である。

顕教の考えは、「凡夫が仏に成る為の修行」の果てに悟りの彼岸に到達するのであるが、密教の考えは、「まず仏に成ってから仏として修行する」と考えて良いであろう。

すでに完成したプラモデルをイメージしながらプラモデルを作るという作業に似ていると思いませんか?

大日経の「手をあげたり、足をうごかせば 皆、秘密の印となり、口を開いて、声をだせば ことごとく ご真言となる。心をおこし、おもいを動かせば すべて仏を観じることになる。」という境地はまさに「即身成仏」を達成した超人の境地なのである。


   迷信とは何か?

ノーベル賞受賞した動物行動学者で「ソロモンの指輪」の著書であるローレンツ博士は、

「原因と結果の因果関係の洞察力を欠いている生物にとって、その目的を達成できることが、一度あるいは何度かわかり、そして危険を伴わずにそれを行えた行動パターンを固守することは非常に有益であるに違いない」
といってる。

すなわち、行動学として、もしも複雑な試行錯誤のあとで成功し、経験のどの部分が最も重要であるか分からないとしたら、それらの行為の全てを正確に繰り返すのが重要であって、理論はあとから考えるのが正しい。 ということである。


私たちの身の回りには多くの迷信と呼ばれることがある。
たとえば、「家相」や「風水」なんかもその範疇に入るであろう。

家相で「鬼門の便所は跡取りに恵まれないという根拠は?」という問いに対し、「古代中国では、東北に住む匈奴という蛮族に子孫を殺されるという脅威から発生した迷信である。」という解答が科学的かというと、先のロレンツの説から鑑みれば、科学的なようで実は科学的でない。
なぜなら、それは「科学的に証明できない」ゆえに「科学的な根拠と考えられる理由」を仮説してるにすぎないからである。
しかし、このような科学モドキの解釈の方が、一般の人には納得し易いみたいである。

家相で「鬼門の便所は跡取りに恵まれないという根拠は?」という問いに対し、「中国で鬼門に便所がある家を調査したら跡取りが出て行ったパターンが多いからではないか?」という解答をすれば実際には行動学的な解釈といえる。

よって、「中国で鬼門に便所がある家を調査したら跡取りが出て行ったパターンが多い」という説明があれば、動物行動学を学ぶ者ならば「その因果的な根拠は?」と考えるよりも、「とりあえず鬼門の便所はやめたほうが安全である」と考えるのが有効だとロレンツは言うわけである。

いわば、迷信とは、他の人の経験を土台にし、結果をあらかじめ想定し、あらゆることを経験しないでも知識を獲得できる「経験論」であるといえましょう。

あらゆる論理は結果からの検証である。
実際は、検証自体も正しいとは限らない。
現象だけは真実である。
 
世に多くの迷信があるが、きっとそのほとんどは正しいのではないだろうか?
アナタの回りの迷信を侮ることは実際はかなり危険なのである。


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