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昔に買った本なんですけどね。 ダライラマ14世の書いた本があります。 買った当初は、非常に理屈っぽくって読んでなかったんですけど、 今回読み返すと、非常に面白いのですよ。 それで、その中の話で「敵はなぜ存在するのか?」という件を紹介しましょう。 ダライラマ14世(以下、ダライラマ)曰く 「宿敵は私達を救うという動機を持っていない故に敵という。 したがって尊敬すべき者ではない。 しかし、敵は私に害を為そうとする故に、 私達は「忍耐する」という菩薩行(六波羅蜜での忍辱の行)を修養できるのである。 即ち、私は忍耐を修養する為に敵を必要としている。 例えば医者があなたを救おうとした場合、医者はあなたに害を及ぼさない。 したがって、あなたは医者を敵と思わない。 しかしながら、医者は敵で無い故に、忍耐することを教えてくれない。」 この言葉はダライラマを知る上で非常に大きな意味がある。 なぜなら、ダライラマこそ、中国共産党という天敵によってチベットからインドへの亡命を余儀なくされたのであり、 亡命した為に、数多くのチベット人がダライラマの盾になって死んでいったのである。 数多くの同胞の死を知りながら、なぜ彼はけっして中国共産党と戦おうとしないのか? そして、チベット仏教の伝承のとおり、ダライラマが観音菩薩の化身であるのならば、 なぜに仏はこのような破戒仏行為に対し沈黙しているのか? 仏敵を法力によって調伏しないのか? なぜそれをしないのか?それとも出来ないのか? ダライラマには観音の化身では無いのではないか? 沈黙は悪を認めることではないのか? 「正義」から考えると悪と戦うことは善であるように思うであろう。 しかし、仏教においてはとんでもなく見当違いな考えであるらしい。 「布施を実行する者は多く存在するが、忍耐を修行できる者はほとんどいない。」 とは、古代の聖人シャーンティデーヴァの言葉であるが、 菩薩は敵と戦うどころか「苦を自発的に引き受けよ」こそ正解であると説くのだ。 まさに「絶対に争わない事」こそ、古の菩薩の智恵であり異論を許さない論理なのである。 続いて聖人シャーンティデーヴァはいう。 「憎むべき敵は、現在敵になって現れているけれども、 過去には仲間であったかもしれない。 また現在の仲間も将来は敵になって現れるかも知れないのだ。 このように人間界での現象はすべて変化し永遠のものではない。 したがって、私達が友人には好意、宿敵に対しては憎しみといった 固定した感情を持つことは正しくないのである。 そして、苦しみがあるのならば、それは重荷ではなくて、 私達を救うものであると考えることが必要である。 なぜなら、苦を忍耐する故に過去の悪行に気づきそれを解消できるからだ。 例えば、人に迫害されて惨めな思いをして初めて、 人は過去において自分が人を無意識に裏切って悲しい思いをさせた事に気づく。 そして、このように考えることは、非常に重要なことで、 苦しみに耐えれば耐える程、輪廻においての悪行をますます嫌悪するようになり、 背負わないことの手助けとなろう。」 つまり、チベットを迫害した共産党員が生まれ変わってチベット人になって 中国の共産党に迫害されたり、ダライラマの盾になって死んでいくことがあり得ると 仏教は考えるのです。 縁起を考えない戦略的な勇敢なる「悪と戦う」という行為は、 じつのところ本当の解決にもならず、 実際はますます悪を放置し増幅させる縁を作り出すのですね。 だからダライラマは臆病者のように見えるけれども、決して戦わないのです。 これは私のお気に入りの「愛染明王」であります。 愛染明王というのは人間の愛欲煩悩を否定せずにそのままで成仏させて頂ける如来の化身と言われております。 ところで明王のお顔はなぜこんなに恐ろしい顔をされてるのでしょうか? 一般的に弥勒菩薩や観音菩薩などの仏の顔は「慈」の顔をされていますが、 明王というのは「怒」の顔をされています。仏とは思い難い顔であります。 しかしながら、仏教では、特に空海が言うには、 「人は不動明王になってこの世を生き抜け」と教えます。 なぜ「慈」の菩薩ではなくて「怒」の明王で生きるべきなのでしょう? そう考えると、悪と争って勝利せよ、とも思えられますよね。 しかしながら、ダライラマのいうように、 仏教とは「争い」を否定し、「怒」を否定するものです。 ならば、なぜ「怒」の明王で生きぬけと教えるのでしょう。 長い間、私はその真の意味が判りませんでした。 しかし、今回、このダライラマの「敵に関する話」を知り、 そして少しは世間というものが判ってね。 感じることは、理不尽な世界を信念をもって生き抜くことの難しさであります。 そして明王の「怒」こそ、まさに理不尽な世の中を強い意志で生き抜く、 「忍」を極めた顔なのではないでしょうか? どこまでも忍えしのぶことは強烈な意志がなくては出来ません。 だから、明王の顔は「怒」であるが「悲」を感じるのでありましょう。 つまりダライラマが教える「忍耐する菩薩」とは不動明王に他ならないのです。 |
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| 内 容 | ニックネーム/日時 |
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エイジさん、こんばんは〜。 |
カコ 2008/12/01 22:44 |
時には、弥勒菩薩のように |
カラス 2008/12/02 00:03 |
なるほど。 |
クルス 2008/12/02 22:34 |
カコさん。こんばんわ。 |
エイジ 2008/12/05 18:10 |
私の守り本尊は不動明王であるらしい。 |
みどり 2008/12/09 15:52 |
みどりさん。 |
エイジ 2008/12/11 17:59 |
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